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小学校の運動会

小学校3年生の運動会のときである。 借り物競争と変装を交えたような競技があった。 児童はあらかじめ置かれたカードを拾い、そこに書かれた妖怪に変装し、走り方に制限を加えられゴールを目指すという競技だった。 妖怪の中には「九尾の狐」があったのは覚えている。これを引いた児童はストッキング製でゴムで束ねた9本のシッポを身に付けよつんばいで移動するという、引いてしまったら負けが確定する上にシッポを生やした姿を晒すことになるという、その当時の俺には最悪なカードだった(なぜかこのカードを引いて1位になった男子もいた)。 ...もちろん、引いてしまった。 もともと足が遅かったから運動会は嫌いだったが、シッポの生えた姿をゴールにたどり着くまで長時間晒し続けた。この姿は俺にとって服を着て社会の窓からチンポを晒すのと同じぐらい恥ずかしかった。 現在はわからないが、俺が育った時代の教育では園児・児童にシッポを生やすことが頻繁にあった。おかげで立派な変態に育った。

アイアイ

小学校に入学し、体育の時間に準備運動として赤白帽子を使ったシッポ取りをすることもあったが、自分にシッポを生やさせられ、同級生がシッポを生やす(させられる)のを見るたびにドキドキした。 「早く人間に戻らなくてはエロ獣になってしまう」 そう思って、いつもすばしっこい同級生に 「取れないだろう」 とシッポの生えたケツを差し出して引きつけ、振り返るころにはシッポを取られるというどんくさい少年を演じた。デブでとろくてよかった? 小学校1年生のおわりごろ、6年生を送る会で一年生は「アイアイ」を演奏した。各学級から2名ずつアイアイ役が選出され、残りは舞台下で「アイアイ」を歌った。 アイアイ役の児童はほとんど男子でストッキング製シッポを生えさせられていた。 この演奏ではアイアイ役は舞台に上がり、その他の児童は舞台下で他学年に顔を向けていたので、アイアイ役の同級生を見ることはできなかった。 「…見たい!」 そう思ったのは俺だけではなかったようだ。練習中、何度も何度も舞台を振り返るその他大勢。 ついに指導している教員も痺れを切らし、その他大勢は1度だけ舞台を見ながら歌うことを許された。 「これでやっと○○のチンチンが見れる」 ある男子がそう声に出した(俺ではない)。その声を聞いて「やっぱりシッポってチンチンみたいなものなんだ」と納得し、興奮した。声に出したのが誰かわからなかったが、声に出してくれたことに感謝した。 シッポを生やしたアイアイ役の児童はかっこよかった。その姿だけでも俺の中の雄の部分をくすぐっていたのだが、動きを伴うことでそれはかなり強いものになった。 そのときには性的なものだということに気がついていなかったが、シッポの生えた男子を見ることが好きだとはっきり気がついた体験だった。

俺のシッポ取りに感じる使命

以下は、すべて俺の妄想である。 男子には、シッポ取りを経験させるべきだ。確かにシッポ取りには鬼ごっこの延長として自分の背後を警戒することや敏捷性を伸ばす効果もあるが、それよりも普段経験することがないであろうシッポを生やすという経験で、彼らの中に眠る動物の雄としての本能を目覚めさせることの方がより重要である。 普段の服装でシッポが生えることを経験することはまずないだろう。シッポを生やすにはシッポの形状を模したものをズボンの臀部に挟む必要があるが、手間と道具が必要だ。指導や提案なしに子どもが思いつき、わざわざその手間をかけることは考えにくい。シッポ取りを経験したことのある年長のもの(周りの大人、指導者、年上の友人や兄弟など)が一度(一度やればその印象に残る)指示、提案、提示するとその後再び行う際にもスムーズに進むだろう。 人間にシッポが生えるということは人間以下のもの(動物・獣・悪魔)になるということである。他のものにシッポが生えることを見ることは嘲笑を誘う。自分自身にシッポが生えた姿を他のものに見られ嘲笑を受けることにより生じる恥ずかしさと興奮は自身を動物・獣として自覚させる。将来の性欲の源ともなりえる。 最初にシッポ取り経験者はシッポの生えた姿を中腰・がに股になり足の間から長いシッポをシッポを生やしたことのないものに見せるといいだろう。「シッポ」「気持ちいい」「恥ずかしい」「チンチン(チンポ・チンコ)」「勃起」「エロい」「悪魔」「獣」「動物」「人間」という言葉を多用し口汚くののしる。まず、目の前にシッポの生えた男がいるときの優越感・欲情を感じさせる。 次にシッポ未経験者にシッポを生やす。やはりシッポの生えた姿を中腰・がに股になり足の間から長いシッポをシッポを見せるように促す。このときにも「シッポ」「気持ちいい」「恥ずかしい」「チンチン(チンポ・チンコ)」「勃起」「エロい」「悪魔」「獣」「動物」「人間」という言葉を多用し口汚くののしる。自分にシッポが生えたときの劣情を自覚させ欲情させる。 シッポが生え(させられ)ることや他のものにシッポが生えてくることに欲情するのはある種の才能で、全員が開花できるものではないかもしれない。しかし、フェチというものは一度開花すれば消えることのない性癖となる。これを使って一生ムラムラするのもまた一興である。

シッポ取りの隠れた意味

俺自身が初めてシッポ取りを経験したのは幼稚園時代だった。 この記事 でも書いたが、それまでシッポに対して無意識にムラムラ(もやもや)とした印象を持つことはあったが、遊びで友人や自分自身にシッポを生やすということは思いついたことはなかった。シッポ取りで自分ににシッポが生えさせられ周りの友人にもシッポが生えるのを目撃し、それに衝撃を受けたことでこの性癖が開花してしまった。 シッポ取りは設定のある鬼ごっこだ。シッポを生やしたものが他のシッポを生やしたものからシッポを奪うことで勝負を競う。ゲームの設定としては単純なものだが、そこには言葉にされない(というか言葉にしては不適切な)意義が、気づいているかどうかは別にして、存在しているように思える。 あくまで以下は俺の考えなのでこれを他の人に話して軽蔑されても俺は責任をもてないのだが、書いてしまいたい。 シッポ取りとは男根崇拝が根底に流れているように思える。はじめに全員シッポ(男根、勃起したチンポのこと)を生えており、それを互いに奪い合う。最終的にシッポを維持し続けたものが勝つのだが、これは自然界での群れを成す動物・獣のマウンティングを縮小しているように思える。 これとは別に、シッポ取りに参加する(自発的、受身的とも)ものと参加しない(拒否、あるいはゲームマスター的位置に立つ)ものの間にもある種の上下関係があるように思える。シッポ取りにおいての俺の考える上下関係では、自分はシッポを生やさず、他の参加者がシッポを生やすのを目撃するものが上(SMでのS)、自身にシッポを生やすのを目撃されるのが下(SMでのM)に位置しているように思える。 つまり、シッポ取りは本能レベルでの雄のマウンティングとSMの初歩的体験をさせてしまう可能性のある遊びなのである。 ここまで考えてシッポ取りを導入・指導をしていることはあまりないと思うが、これを経験した俺の性癖は大変偏ったものになった。

学校シチュエーション (1)

男子校。 男性教師。 生徒複数名。 「有尾人科はじめるぞ。じゃ、まずシッポを配る。」 教師が細長いものを数本ずつ、一番前の机に置いていく。生徒は一本ずつ取り、後ろに残りを回していく。 「全員いったか。それじゃ、まず俺が生やしてみるからよく見るように。」 教師は生徒に背を向け手にした提示用シッポを背後に回す。 「最近、太ったからかな、ベルトをしなくてもズボンがきついんだ。」 などと言いながらズボンの後部を引っ張り、シッポの先端を挟み込む。 「こんな感じだ。後ろの席のものは見えるか?」 シッポを生やした教師はそう言いながら、教室を歩き回りシッポを見せる。それから生徒に顔を向ける。 「やっぱり、シッポを生やすとちょっと気持ちいいな」 教師は股間に手を伸ばし、ちょっと揉むように動かす。生徒たちは笑ったり赤い顔をする。 「これがシッポの生えた俺の姿だ」 教師は股を開き中腰になると、足の間から立派なシッポが伸びているのが見える。 「それじゃ、これから回るから各自シッポを生やすように」 生徒たちは立ち上がり、配布されたシッポを制服のズボンに生やしていく。教師は生徒たちに自分のシッポを握らせ、生徒たちのシッポを握り返す。 教師は回りながら「シッポは獣の証、第二のチンポ。ちょっと恥ずかしいけど気持ちいいよな」などと口ずさみながら教室を回る。